世冨慶エイサー

名護市世冨慶(よふけ)エイサー、2003年平敷屋エイサー保存会結成20周年式典、場所は平敷屋小学校
私の撮影はぶれていますが、世冨慶エイサーの魅力は伝わります。
太鼓が道化であることと、モーアシビエイサーの手踊りの素晴らしさをみることができます。
15分ごろにダンクモーイをみることができるでしょう。(具志堅邦子)

https://youtu.be/TZSJ2621PWY




具志堅要「ダンクモーイ」草稿 (しまうた文化研究会『しまうた第14号』掲載)
2016/08/26
エイサー
民謡・民俗研究家の故・仲宗根幸市さん(1941-2012)から依頼を受けて、『しまうた第14号』(2002年)に、手踊りエイサーについての考察を掲載したことがある。
考察の未熟さも含めて、読み直してみたいと思う。
その当時は、平敷屋エイサーの手踊りのルーツは名護エイサーのダンクモーイではないかという見方を持っていたが、現在はそのような見方をとっていない。
エイサー生成の明治・大正時代は海上交通が主流であり、与勝半島は沖縄島東廻りコースの拠点だった。つまり明治・大正時代の那覇で誕生した雑踊(ぞうおどり)や沖縄芝居を取り入れることのできるエリアだったのである。明治・大正時代の都市的な最先端の流行を取り入れたのが、与勝半島のパーランクーエイサーの手踊りだと思われる。

「ダンクモーイ」草稿

エイサーを見るときは、太鼓の躍動の華やかさに目が奪われがちになるが、実は今は脇役に置かれているように見える手踊りの部分にこそエイサーのエイサーたる本質が隠されていることは確実だろう。なぜならば太鼓を多数揃えるエイサーは多くのシマにとって歴史の浅いものであり、手踊りを中心とした編成こそがより古形に遡る可能性があるからだ。

その手踊りを中心に据えて各地のエイサーを見るときに、荒々しい手踊りと静的な手踊りの二つに分かれることに気付かされるだろう。静的な手踊りの分布は勝連半島と具志川市の一部の地域に限られる。太鼓にパーランクーを使う地域だ。そこは例外なく手踊りは静的になる。それ以外の地域で踊られる場合でも、両地域からの伝播によるものである。この違いはどこから発生したのだろうか。それを考えてみたい。

私見によると、この静的な手踊りは「ダンクモーイ」といわれる踊りである可能性が高い。「ダンクモーイ」という言葉は「ダンク節」という歌の歌詞に残されているが、さて、それがどのような踊りなのかというと、文献資料も皆無に等しく、実体がよくつかめない。『ぎのわん 字宜野湾郷友会誌』によると「ダンクとは談合と書き、人知れず男女が恋を語らうことで、舞はアングヮ踊りの部類で、浜千鳥や加那ヨーと同じく手を頭上にあげ、こねらして踊る方法」であり、「ダンク節」は、「この歌は王府時代の末から明治の初め頃にかけて流行したようで、国頭地方から中頭地方の野遊び歌によく使われている」というその実体についての貴重な教示がなされている。管見の範囲では、この教示が「ダンクモーイ」および「ダンク節」について現在手に入れることのできる説明のほとんどである。『琉球芸能事典』によると「ダンク節」は「沖縄ヤンバル(沖縄本島北部の俗称)方面で生まれ、全島に伝播した座興歌」ということである。

「談合」という言葉の流行については,柳田國男にも言及があり、「カタライはまたしゃれてダンゴという者もあったらしい。ダンゴは談合であり、双方がともに思うことを談(かた)るので、鳥などはただ黙って去就を決したかも知れぬが、ともかくも判断は必ずしていたのである。しかるにその判断には稀(まれ)ならず失敗があったゆえに、次第に父母兄姉のような、世故にたけまた親切な長上に、これを委(ゆだ)ねるのを安全の道と、解する若い者が多くなった。それが人類のまた一つの制度である。そうしてダンゴの児(こ)を、ただ失敗の記念の名としたために、いつとなくこの言葉の響きが、大へん悪いものになったのである」(「婚姻の話」『柳田國男全集十二』)と、ある時代にこの言葉が男女の恋愛関係を指す言葉として使われたことを示唆している。

以上の言及からいえることは、「ダンクモーイ」という踊りが男女の恋愛における語らいを表現する踊りであるということである。「人知れず男女が恋を語らう」ということは、通常のエイサーの大地を踏みしめる激しい踊り方ではなく、静的な情愛に充ちた踊りであったであろうことは想像できる。

勝連半島平敷屋のエイサーは、「明治三十七年六月ころ、当時、平敷屋の青年団長であった兼堅助志さんが十八歳の時、沖縄県下で名護エイサーが一番評判がよいとのことで、当時の青年団の踊りの愛好者数人とともに名護に行き、名護エイサーの指導を受けて来て、その後、名護エイサーを参考にして、太鼓での踊り方、手踊りのやり方等研究を重ねて振り付けられ、県下に評判の高い平敷屋エイサーとして後輩に引き継がれた」という伝承を持つ。しかし、肝心の名護には勝連半島のようなパーランクーによるエイサーがないので、この伝承には不思議な気がしていた。ところが、名護で習ってきたというエイサーが「ダンクモーイ」であったのならば、この疑問は解ける。なぜならば、「ダンク節」のなかに「ダンク節習ゆんで 名護東江(なぐあがり)通(かゆ)てぃ 通てぃ珍(みじ)らさや(ダンク節を習いたくて名護の東江に通っているけれど、通うときは胸をときめかしてしまう)」という歌詞があるからである。名護の東江が「ダンクモーイ」の流行の一つの中心地であったことが、この歌詞からうかがうことができる。しかも「ちんし割てぃ通てぃ 頭(ちぶる)割てぃ通てぃ にゃひん通いぶさ(膝頭を打ち割って、頭も血だらけにしながら遠い夜道を通ってくるけれど、懲りることはないよ。まだまだ通い続けたいよ)」というくらい夢中になる踊りであったようだ。そして、「ダンク節てぃしや 恋(くい)ぬい語れか かにん面白(うむしる)さ(ダンク節というのは恋の語らいなのだろうか、こんなにも面白くてたまらない)」(引用の歌詞は『琉球芸能事典』より。意訳は筆者)というように、「ダンクモーイ」が男女の恋の語らいを表現する踊りだったことは、歌詞に明示されている。

当時県下で評判の高かった名護エイサーの踊り方は「ダンクモーイ」であった可能性がある。

ところで、その名護エイサーというのは、どのようなエイサーなのだろうか。東江のエイサーも現在は太鼓型のエイサーに変っているので、「ダンクモーイ」の面影をうかがうことはできない。昭和三十三年当時の本田安次氏の採訪にみると、「旧盆の十五日、宿のニ階の窓からずんずんと昇る月を眺める。と、太鼓の音が聞えてくる。出てみると、太鼓は向こうの横町から聞えてくる。行ってみると、三味線二、太鼓一の囃子方が麦藁笠(ムンジュル)を冠り、男女の踊子十八人が、男は前結びの鉢巻、浴衣、襷、腰帯を右に結び垂れ、白足袋の仕度、女も襷、腰帯はこれは左に結び垂れ、同じく白足袋姿で、輪の中には『祝豊年』『東江』と誌した行灯を持つ者もおり、逆まわりの輪にまわって踊っていた。次々と曲を変え、無手にもなり、四つ竹、扇などをとっても踊る。『天川』式に手を組み合うことも一度、男女向かい合って振りあることなど。宮廷舞踊の手が巧みに輪舞にうつされているのを見る。踊り子が歌をうたい、囃子言葉もいう。無手の踊りには手拍子も打つ。ともかく美しい踊りであった」(『沖縄の祭と芸能』)とうように「美しい踊りであった」と感想を述べている。激しいエイサーではないようである。「『天川』式に手を組み合う」とか「宮廷舞踊の手が巧みに輪舞にうつされている」という観察も、その踊り方が「ダンクモーイ」であった可能性を裏付ける。

隣り部落の世冨慶は「そのエイサーは、もとはクイチャー踊風のはげしいものであったかと思われるが、それに宮廷舞踊の手を巧みにとり入れた優雅なものになっている。何びとの工夫なのであろうか。(中略)その踊の様子は、前夜の名護のと同様であった。次々に歌を出し、歌ごとに振を変える。持物も扇・四つ竹・無手など。男女打組踊もある。(中略)最後にうたいつつ輪をすぼめていった。踊は洗練されており、若さに満ち満ちて、いかにも楽しげであった。のち、踊子たちが公民館の中に集まって、いろいろの歌をうたって聞かせてくれた。男女が掛合いにうたう。美しい声である。心地よい歌である」(『沖縄の祭と芸能』)というように東江への感想と大差ない。ほぼ同形のエイサーだったのだろう。また、「男女が掛合いにうたう。美しい声である。心地よい歌である」という感想も、モーアシビの雰囲気を髣髴とさせる。

この両部落は元は一つのエイサーだったようで、「名護市東江エイサーの歴史は古く、明治三十年後半ごろに青年たちの毛遊びが発展し、東江原エイサーになりました。その後昭和二十二年ごろに東江原エイサーは世冨慶エイサーと東江エイサーに分かれ、現在に至っています」(山入端義昭青年会長『沖縄タイムス』一九九七年八月二十日朝刊)という証言がある。平敷屋エイサーが名護エイサーの指導を受けたといわれるのが、明治三十七年ごろということなので、時期は一致する。

つまり、一世を風靡した「ダンクモーイ」は現在の世冨慶のエイサーにその面影が残されている。

ここまでの経過をまとめてみると、琉球王朝時代の末期から明治の初め頃にかけて「ダンクモーイ」という踊りが流行し、その中心地の一つが名護市東江であったらしい。東江では明治の三十年代にモーアシビの影響を受けてエイサーが成立するが、それは通常の勇ましいエイサーではなく、男女が恋を語るという「ダンクモーイ」の踊り方を取り入れた優雅なエイサーであったようだ。そして平敷屋の青年たちは、この踊りを取り入れたのだ。

この優雅な「ダンクモーイ」に合わせるには、太鼓を激しく叩くわけにはいかない。パーランクーを禁欲的に舞わせる勝連半島の独特のエイサーの型は「ダンクモーイ」から発生した可能性が高いと思われる。そして、手踊りを優雅な振り付けにし、パーランクーを静かに叩かせる分だけ、精霊を鎮めるエイサーのパッションは道化に集約され、荒々しい道化たちの動きを生む。道化たちの激しい暴力的な演舞は他の地方には見られない勝連半島独特のものだ。この構成ができたときに、勝連(かっちん)エイサーは高い演劇性を獲得し、静と動のストーリーを展開する。

この暴力性と同居するからこそ際立つ、秘められた恋愛の醸し出す演劇性は、モーアシビの世界の持つパッションと同質のものである。前述の『ぎのわん 字宜野湾郷友会誌』によれば、「沖縄諸島全域の少年や若者の伝統的な格闘技があり、それはレスリングと同じく相手を投げつけ相手の背中をつけさせれば勝ちという荒っぽい遊びがある。(中略)宜野湾ではこの遊びのことを『倒(とー)せー』と呼んでいる。字宜野湾でも村内の若者のみで遊ぶときには滅多になかったが、近隣の村の者も野遊びに参加し、野遊びが合同で行なわれる時にはしばしば起こった。理由は恋の鞘当てや力自慢の者が力を誇る場合である。まず、野遊びで舞方を踊る時は手拭いで頬被り(こーがーきー)をすることになっていた。頬被りをして舞っている男が舞方の歌詞の終りの句『ハイヤ倒せ』が終っても、頬被りのまま中央に立ち続けるか、地面を足でどんどん踏む時は相手の村の者に倒せを挑んでいるのであるから挑まれた村の者は挑戦しなければならなかった」ということであり、格闘技も「遊び」の重要な要素であったのだ。「舞方(めーかた)」という踊りは、青年の激しさを誇示する踊りのようで、「立ちみそり舞方(めーかた) 我身(わみ)や歌さびら 二才(にーせ)がする舞方 身欲(みぶ)しゃびけじ(立って踊ってちょうだい、私が歌うから。あんたが踊る激しさを、見たくてたまんないんだから)」「此処(くま)や誰(たる)とぅ思(うむ)てぃ 無理に仕掛きゆが 生(ん)まりてぃどぅ見(ん)ちゃる 死じや見(ん)だに(ここで踊っているのを誰だと思って無理に喧嘩をふっかけてくるんだ。生まれたことは経験しているかもしんないけれど、死んだ経験はまだないんだろう?)」(CD『生命燃えるうた沖縄二〇〇一』歌詞ノートより。意訳は筆者)というふうに歌詞自体がすでに好戦的である。この歌詞の終りに「ハイヤ倒せ」の句が来るのである。たちまちにして一瞬即発の状態になるのはやむをえないだろう。

この暴力性が「ダンクモーイ」と両立するときに、勝連(かっちん)エイサーが成立する。

掲載誌『しまうた第14号』しまうた文化研究会,2002年12月1日.
「ダンクモーイ」草稿 (しまうた文化研究会『しまうた第14号』掲載)
(具志堅 要)

ティーダブログ「ぷかぷか」より
https://pankisa.ti-da.net/e8934672.html